20230505

お久しぶりです。少しだけ時間が確保できたので重い腰を上げて日記を更新することにしました。

最後に記事を書いたのが2022年の3月、そこから約1年2ヶ月ぶりの更新ですので2022年度に一度も日記をつけなかったことになります。今日の分の日記をつけましたら、2022年度に何があったのか、なぜ日記を更新できなかったのかについて記したいと思います。

 

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今日からゴールデンウィークの後半に突入したわけですが、私は5月1日も2日も授業があったため、ゴールデンウィークが半分終わったという気分でございます。

朝起きて、ゴミを出して、ご飯を食べて、ちょっとだけ家の掃除をして、買い物に出かけてたら22時を過ぎてました。時間というのは恐ろしく早いのですね。あるいは恐ろしく早く感じるようになったのかもしれません。

 

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2022年度を一言でまとめると、言葉通り「激動の一年」でした。あまりにもあっという間に過ぎ去り、自分が何をしていたのか、主要なイベントを思い出すことこそできますが、では毎日何をしていたのか、どのように過ごしていたのかは全く覚えておりません。それが良いかどうかはおいといて…いや、これに関しては良いか悪いかは決められないただの事実な気がするのでこれ以上言及しませんが、どのようなイベントがあったのかについて書きたいと思います。

 

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新学期が始まって1ヶ月、新しく始まった卒業研究ゼミに加え、4月末から始まる教育実習の準備でてんてこ舞いでした。教育実習は計3週間、4月から5月にかけて実施しました。なのでちょうど1年前の今は必死に授業用資料をLaTeXで作成している途中なのですね、この文章を書いていて初めて気づきました。

教育実習期間はとにかく忙しく、まともな睡眠が取れた記憶がありません。慣れないことの連続でとても大変でした。しかし、その忙しさと大変さを上回るくらい楽しかったです。生徒と触れ合うことによる楽しさ、授業で自分の狙い通りに生徒が反応してくれたり狙い通りに授業が進行できたとき等々…

こんなことを書いては怒られてしまいます(すなわち、教育実習に行った身でしてはいけない発言ということです)が、教職課程を履修することを決めた理由はあくまで進路の幅を広げるため、路頭に迷うのを防ぐためであり、教職に就くつもりは毛頭ありませんでした。そしてそれは4年生の4月になっても変わりませんでした。それが気付けば教育実習最終日、教員という進路も選択の一つに入れるほどこの教育実習での体験は私に大きな影響を与えました。

今でも進路の一つに含んではいますが、筆頭候補ではありません。人生に疲れたら田舎の中高一貫校で数学教員をするのも悪くないなと思ったり思わなかったり。

 

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さて、5月も下旬に差し掛かるころ、教育実習が終了し、大学に復帰。と、同時に大学院入試説明会や院試の勉強が始まります。大学院入試の勉強、そして大学院入試自体、もう本当に最悪でした。二度とやりたくありません。院試期間中の記憶がほぼありませんが、数少ない記憶として机に向かうのあまりにも苦痛であったこと、数学が全く楽しくなかったこと、それどころか朝を迎えたくなかったことを覚えています。とにもかくにも大学院入試は本当に最悪でした。本当にもう二度とやりたくありません。

特に私の場合、1年休学していたので入学同期と院試を受けることができず、1つ下の学生と院試を受けることになっておりました。そもそも学年が違うという点に加えてコロナ禍により卒業同期とほとんど顔を合わせたことがなかったこと、ゼミの同期に院試を受ける人がいなかったこと等々の要素が重なり一人で院試対策を行うこととなり、この孤独な環境がかなり精神的にきつかったです。

最終的に4ヶ所を受験し2勝2敗でした。第一志望と第二志望(この両校の志望度にほとんど差はありませんでしたが)に合格をいただき、その他2校は不合格でした。あまりにも遅すぎるスタートと数学的能力の無さを考えれば上出来ではないでしょうか。

進学先はかなり悩みましたが、最終的には決断を下しました。中堅私立から旧帝大へ、自分でも信じられない進路を歩むことにしました。

 

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9月上旬に結果が出揃い、夏休みが終わるまではゆっくりしようと思った矢先、9月下旬ごろから身体に異変が現れました。太ももの筋肉がすぐ痛くなり1日が終わる頃には脚に力が入らずひどいときは自力で立てなくなる、すぐ息が上がる、体力がすぐに切れる、何をするにも気力が出ない…最終的にはほとんど寝たきりの状態になり授業もゼミと教職の2つ以外はすべて履修を中止、11月上旬にバセドウ病の診断を下された頃には自力で歩くことすらできませんでした。

ちょっと突っ込んだ話になりますが、私がバセドウ病の診断をいただいた際の血液検査の結果はFT3が基準値上限の6倍以上、FT4はもはや測定不能で、最低でも基準値上限の4.5倍以上あることが分かり、TRAbももはや測定不能なほど量が多く、基準値下限の20倍以上あることが分かりました。ちなみにTSHは(当たり前かもしれませんが)少なすぎて測定不能でして、基準値下限の10分の1にも満たない状態でした。

大学4年生の後半は完全に体調に持っていかれ、全くもって何もできませんでした。辛かったです。めちゃくちゃ辛かったです。身体的な面ももちろんですが、メンタルもかなりやられました。身体は動かない、考えがまとまらないので机に向かって本を読むこともできない。けれどもベッドで横になりながら考える時間だけはたくさんあったので死生観から人生観、将来の展望など様々なことについて考えました。如何せんメンタルがダウンしているときに考えたことなのであまり当てにはならないかもしれませんが、特に将来の展望に関しては冷静に考えたらこういう人生を歩むのが最善だよねという結論に到達しており、健常者時代の私には到底たどり着かない結論だったため、その考えも無駄だったわけではないのかなと思ったりもします。

 

もし、これを読んでいるあなたの周りにバセドウ病の方がいましたら、とてつもなく大変の思いをしている/していたことを理解し、労わってあげてください。バセドウ病は患者数が多い病気ですが、患者数が多いからと言って軽い病気ではありません。健常者からは想像できないほど大変な病気です。健常者の当たり前が当たり前ではなくなります。身体的な面だけでなく精神的な面でもとてもとても大変です。

一生付き合っていくしかないこの病気、気長に治療を続けるしかありません。ちなみに現在はホルモン値が基準より高いため、結構辛いです。

 

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そんなこんなで私の5年間におよぶ大学生活は幕を閉じたのでした。山あり谷あり、一本道とはいかないものでした。

正直楽しくはなかったです。楽しかった思い出は一つもありません。

大学に入ったら遊べると親や周りから言われましたが、仲良くしてくれる人こそいるものの遊びに誘ってくれる人は一人もいませんでした。さらに自分が遊びに誘うような人間でもないこともあり、遊んだ時間でいうと8ヶ月の留学期間のほうが日本での4年より圧倒的に長かったです。というか大学4年間で他人とご飯こそ行ったものの(すべて自分から誘ったものですが…)遊んだ記憶などありません。記憶が正しければ最後に遊びに誘われたのは高校の卒業旅行です。そう考えると私は仲が良い人はいるけど友達や友人はいないんですね。そもそも仲が良い人もいるのか?いない気がしてきた。笑うしかないですね。

そんなクソみたいな大学生活でしたが、学位授与式で学位記を渡されたとき、初めて報われた気がしました。

もちろん遊びたかったですし、最低でも人並み程度の大学生活は送りたかったです。しかし、そもそも大学に入ったのは学位記を手に入れ、その学位記を胸を張って誇れるくらい頑張りたかったから。最低最悪な5年間でした。それでも、反省はしても後悔はしていない。

 

病気で頭が全く回っていないなかの書きなぐりでしたが、読んでくださり、あるいは読んでいなくても目を通してくださり、あるいは目を通していなくても最後の部分だけでも見てくださりありがとうございました。

最後に私が学位記を手にしたときに思ったことを記して本日の日記の締めにしたいと思います。

 

 

もし人間の命が地球より重いのなら、この学位記は地球よりはるかに重い…そうは思わないかい?大江大尉…