20190324

 今日は11時くらいまで寝たあと遅めの朝食をとり、初めて実家の車を使って公道に出た。マニュアルで免許を取ったのでオートマをちゃんと運転できるか不安だったが、助手席に父親が乗っていたのでそこは心強かった。向かった先は近所のラーメン屋。そこで遅めの昼食をとった。

 昼食を終えた後は父が行きたいと希望していたお店までドライブして行った。何か所か寄ったがその内の一つのリサイクルショップでは思わぬ掘り出し物を見つけて即購入。お金がないのに何をしてるんだか…

 教習所で縦列駐車は習ったものの並列駐車は習ったことが無く不安だった。案の定父に大いに助けられながらもなんとか他人様の車に迷惑をかけることなく駐車をこなすことができた。

 帰ってからはいなり寿司を作り、夕食として食べた。昼ご飯のラーメンがまだお腹に残っていたので苦しかったが美味しかったので良しとする。

 

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 合宿免許に参加していた際、日用品やらお菓子やらを買いに行ったスーパーに行ったとき、海なし県なのに海の幸である刺身やお寿司等が売られているのに非常に驚いた(決して長野を馬鹿にしているのではなく、ただ単純に驚いた)。モノにあふれた現代社会ならば当たり前の光景として見過ごしてしまいそうだが、海のない県にも魚、それも生の魚が売られていると思うと色々と考えさせられてしまう。話は逸れてしまうが、何千年も前の時代に海から遠く離れている場所で暮らしていた人にとって魚はとんでもない贅沢品だったのだろうと想像してしまったりする。

 閑話休題。そのお刺身やらを見つけたのはスーパーのお惣菜コーナーの一角である。そこから少し目を横に向けてみると他にもたくさんのお惣菜や弁当が売られていた。これらのようなお惣菜や食材はここでのみ売られている訳ではない。全国のスーパーで売られている。そう考えると自分の近所だけでもだけでもとんでもない量の食料品が毎日消費されていることになる。

 それでは工場等で作られる食料品となるとどうだろうか。このようなことを考え始めてから消費されるかもわからない量の食料品が陳列棚に並んでるのを見るとなんとも言えない気持ちになる。これらの食べ物が消費されずに賞味期限・消費期限を迎えたらどうなるのだろうか。一日でどれだけの量の動物・植物が犠牲になっているのだろうか。これまで考えたこともないような疑問で頭がいっぱいになる。これらの疑問に目を瞑ってこれまでと同じような生活を送っている。良いのか悪いのか分からない。

 これまた話が変わるが、Costcoに行くと大量の日用品やらが山積みされている。本当に誰が買うんだこんなもんというものまでご丁寧に大量に置いてある。そういうのを横目にどんどん進んでいくと気付くと食料品コーナーに来ているということが一度あった。食べ物もそうでないものも大量に山積みされていて見分けがつかない。お前の目が節穴なんだよと言われればそれまでだが、これが消費社会か、という謎の諦めと底知れない恐怖感に襲われたことがあった。何か繋がりでもあるんですかね。

 

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 最近ずっと「世界平和」という四文字についてずっと考えている。果たして日本人の内どれくらいの人が世界平和について真面目に考えたことがあるのだろうか?果たしてどれだけの人が世界が平和になってほしいと思っているのだろうか?今こうして日記を書いている間にも世界のどこかでは戦争が起こっているし、それによって苦しんでいる人も沢山いる。しかしそれを無視するかのように娯楽に興じている。かく言う自分もそうだ。運良く恵まれた環境に生まれただけでそういう人を無視して良いのだろうか?しかしだからと言って苦しんでる人達に合わせて娯楽の一切を禁じ質素生活をしろというのもちゃんちゃらおかしい話である。たとえ何かすべきでも自分一人の力じゃなにもできないので結局何もせずいつも通り安全な場所で寝て起きて、美味しいご飯を食べて娯楽に興じる日々を送るのである。結局そんなものなのだろうか。自分には何も分からない。